人気が欲しい人生だった

POPEYE des KAKITAI

いつかPOPEYEで執筆を

「好き」ってめっちゃ難しくない?

「好き」という気持ちは一体どこで線引きされるのだろう。一緒にご飯に行けることになって、うわあ! うわあ! 、と枕に顔を押し付け叫んでいたとしたら、それは恋と呼べる気がする。

では、喋っていて、めちゃくちゃ可愛い顔やなあ、と思うのはどうだろう。ドキドキしているし、もちろんご飯に行けたら嬉しい。

しかし、顔は間違いなく好きなわけだけれど、甘酸っぱさというのか、甘さというのか、何か成分が足りなくはないか? そう思うのだ。

少々下半身の主張に押されていないか? あわよくばどうにかなりたい、言葉は汚いが、ただヤリたいだけなのでは、と。

これはフェチズムを刺激された時も同様である。わっ! 脚シュッとしててキレイ! とか、めちゃくちゃおっぱい大きいやん、この子…あーあー、もう…とか思った時。この瞬間も間違いなく、その女性のことが好きだと思っている。

しかし、だ。胸によく手を当てよく考えてほしい。この子と夜のスーパーで半額シールの貼られたお惣菜を買って帰って、家でお笑い番組を観たい、とか、日曜日の朝、一緒のベッドから起き上がって、ホットケーキを焼いて食べたい、とは思っているか?

こんな七面倒くさいことを考えていると、僕の前に白髪交じりの長髪とたっぷりの髭を蓄えたおじさんが現れた。無添加のオーガニックにこだわるすっぴんの女性が好みそうな白いコットン素材の服を着ている。

もしや、と思い尋ねてみると、案の定、自分は神だと名乗った。「お主、悩んでおるな」と、全知全能を前面に押し出してきたのが鼻についたので、人を好きになるのは一体どういうことなのでしょうか? と尋ねたい気持ちは山々だったが、「いえ、特には」と突っぱねた。

好きな芸能人の話をしていて、「私のお姉ちゃんの友達、この前一緒にご飯食べたらしいで」などと言ってくる人がいる。知らんがな。この時の気持ちと似ている! と例えようとしたが、全く別物だった。とにかく、神の態度が気に食わなかった。

神は「嘘をつくではない。私には分かるのだ」と余裕ありげに言う。自分で全知全能言うてしもてるやん…。完全に彼のことが信じられなくなった。神とは自らをむやみやたらに主張すべきではないのだ。

例え、新しい鞄を買って浮かれポンチになっていても、「なあなあ、この鞄かわいない?」と自分から言ってはならない。相手から「その鞄可愛いなあ。買うたん?」の一言を待たねばならぬのだ。

僕の信用を完全に失った神はいつのまにか姿を消していた。

恋とは難しく考えるものではない。神に教えを請うものでもないのである。顔がめちゃくちゃ可愛いと思った段階で、どんどんアプローチをかけていけば良い。彼はそれを教えてくれたのだろう。